標準語圏で23年間を過ごした私は、言葉の乱れが非常に気になる。
しかし関西に出てきて衝撃を受けた。関西の人間たちは、東京の人々のように「正しい言葉遣い」を積極的に意識してはいない。
逆にいえば、東京の人間は必要以上に「正しい国語」を追い求めているように感じる。おそらく自分たちの「土地の言葉」の意識が希薄だからだろう。当然のように、東京の言葉も日本語の一方言だ。たとえば「うだるような暑さ」というときの「うだる」は、もともと江戸言葉で「ゆだる」を意味していた。他にも有名なところでは、青梅弁の「うざってえ」がある。そうした土着の言葉を意識しないがゆえに、「正しい国語」を気にかけ、自分たちの言葉を矯正してきた。結果、関東には巨大な標準語圏が生まれた。
しかし、だ。
関西の人間たちは「正しい国語」を気に掛けない。関東では問題だとされる言葉遣いが、平気で使われている。『問題な日本語』という書籍はベストセラーとなったが、それは関東だけでの話で、この近畿の地では見向きもされなかっただろう。そもそも「国語」は、人工的に開発された言語だ。日本語には様々な土着表現があり、言語圏があり、単一の言語とは言い切れないほどのバリエーションが存在している。
そうした言語の違いは意識の違いを生む。しかし我々は、そのような違いなど無いと幻想してしまう。「私たちは同じ日本人で、同じ文化・言語の中にいる」という物語を頭から信じてしまう。少なくとも私はそうだった。だから現在、近畿の人間たちの言葉遣いに、大きな違和感を覚えている。
重要なことは「私たちは違う」という意識を持つことだ。自分の言葉が通じない相手、自分の常識が通じない相手。同じ「日本人」ではあるものの、埋めがたい差異があるのだと、認識しなければならない。
そして、そういった文化的な差異は、無理に埋めようとしないこと。日本人対外国人のあいだでは、自然と生まれる関係だ。異文化交流におけるルールだといえよう。しかし違う地方出身の日本人のあいだでは、なかなか簡単にはいかない。前述の幻想物語があるために、お互いの違いをすぐには承服できない。
今回は、東京出身の私が、関西でどうしても気になる言葉遣いを紹介する。
一部の人には不快に感じられる記事だろう。
世の中には、自分たちの言葉遣いをとやかく言われるのを好まない人々がいる。「教えて!goo!」に《関西弁の「いてる」と「居る」は、どう違うのか》という質問が上がっていた。それに対して一部の回答者がマジギレしており、読んでいて痛々しかった。
が、すでに書いたとおり、そういった気になる言葉遣いに対して「間違いだ!矯正せよ!」とは思わない。そういった違いがあるんだね、おもしろいね……そういう感覚で、今回の記事は読んでほしい。
以上が、長大な前置き。納得できない人はブラウザを閉じよう。
◆「よろしかったでしょうか」
コンビニや飲食店で耳にする表現。
たとえば弁当を買ったときに、「お箸はお付けしてよろしかったでしょうか」と言われる。こちらがまだ「箸をくれ」とも「くれるな」とも言っていないのに、一方的に「よろしかったか」と訊かれる。
違和感。すごくぞわぞわする。
この表現は関西に限らず、最近では東京でも聞くようになった。しかし東京においては、明らかに「若者の言葉づかい」として認識されている。つまり新しい表現で、一昔前の東京では聞かれなかった、と考えられている。
実際のところ、この言葉が古いのか新しいのかは判らない。しかし東京では前述のように、正しい国語を身につけることが是とされる。新しい表現を使うのは、破廉恥で、無教養な証拠とみなされる。それゆえに、分別のある大人はこういった表現を忌避する。したがって、東京で「よろしかったでしょうか」という言葉は、若者しか使わない。
一方、関西では普通に使われていることに驚いた。高島屋や大丸の店員が(相応のお年を召した方々が)平気で使っている。
なぜ過去形にするのだろう。
過去に生じたモノゴトに対して許諾を求めるのであれば、「よろしかったでしょうか」でもオカシクない。例えば居酒屋の店員が、客の注文を復唱した後に言う「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」ならば理解できる。すでに生じたモノゴト(=注文の復唱)に対して確認・許諾を求めているからだ。(それが敬語的に適切かどうかはまた別の話)
「表現が婉曲になればなるほど、丁寧な表現になる」という発想なのだろうか。そういった発想の違い(価値観の地域差)なのだろうか。
この表現の発祥は、居酒屋等のマニュアルではないかと私は考えている。
先述のような「注文を確認するときの決まり文句」としてマニュアルに書かれ、それが広まったのではなかろうか。もともとは「過去形」だったものを、「丁寧な表現」だと勘違いした誰かが使い始めた。そして、その用法がそのまま広まったに違いない。
◆「来られる」
「来ることができる」という意味ではない。
東京において(少なくとも私の周囲で)は、「来る」の尊敬表現として「いらっしゃる」または「お見えになる」を使っていた。可能をあらわす「られる」と区別するためだ。私自身も、敬語表現としての「られる」は最低限で済ませようと心掛けている。
一方、近畿の人は好んで「られる」を使う。「見られる」「食べられる」等々。「ご覧になる」だとか、「召しあがる」といった、敬語用の動詞はあまり使われない。(その一方で可能を表すときには「見れる」「食べれる」と言うのだから、なお興味深い。そういった表現をする人は、可能と尊敬を「ら」の有無で判別している!たぶん!)
文法的には間違っていないだけに、伝わりづらいだろうな、この違和感。
「来られる」「見られる」「行かれる」「される」「やられる」etc...
連発されると違和感を覚えるんです。
ぞわぞわするんです。ほんと。
◆「**させていただきます」
私にとって、これも耳障りな表現だ。
たとえば企画の発表の際に
「それでは、ただいまより発表を始めさせていただきます」なんて言葉が使われる。まるで発表者が、誰かの許可を得て、恐縮しながら発表しているかのように聞こえるではないか。とくに許可・許諾を要しない場面でも、この表現は多用されている。
すごく違和感を感じる。
この表現を多用する人は、単に「謙譲」を表現するためだけに、この言葉を使っている。このフレーズに「許可・許諾」のニュアンスがあることを、あまり意識していないのだろう。
「する」の謙譲表現として、「いたします」という動詞がある。
にも関わらず、関西では(テレビのアナウンサーも含め)冗長な「させていただきます」を使う。結果、「さ入れ言葉」と呼ばれるようなイレギュラーな言語表現もしばしば生じている。
平成19年2月の文化審議会答申も、この表現について触れている。
(http://www.bunka.go.jp/1kokugo/pdf/keigo_tousin.pdf 40ページ)
この答申では、日本の敬語表現の分類を変え、それまでの3種類から5種類へと変えた。とても面白いので、一読をお勧めする。自分の「敬語のセンス」と照らし合わせながら、「あるあるw」「ねーよwww」とツッコミながら読むのがいいだろう。
◆なぜ敬語は難しいか
今回とりあげた表現は、いずれも敬語だ。「よろしかったでしょうか」に関して言えば、おそらく店舗のマニュアル等に書かれていた表現を、そのまま使っているのだろう(そしてその用法が模倣され広まった)また、尊敬を表すために「られる」を使い、謙譲を表わすために「**させていただく」という表現を使う。
いずれも「簡易に敬語表現を作る方法」だ。
先に取り上げた「ご覧になる」「召しあがる」という言葉は、敬語でのみ使われる表現だ。個別に暗記する必要がある。一方「られる」を使えば、そういった単語を新たに覚えなくとも、敬語表現を実現できる。
「**させていただく」も同様。既存の動詞にそれら用言をくっつけるだけで、敬語っぽい言葉になる。
たとえば、
「行かせていただきます」
「聞かせていただきます」
「見させていただきます」という表現。
「参ります」
「拝聴します/うかがいます」
「拝見します」
といった特別な動詞を使わなくとも、敬語表現を実現できる。
標準語圏ではない地方の人は、バイリンガルだ。
自分の地方の言語がありながら、学校では「国語」を教育される。つまり、国語を使いこなすだけでも、東京出身者には想像できないほどのハードルがある。それに加えて敬語表現までも使いこなすには、さらにハイレベルな「国語」能力が必要となる。
なお、各地方の方言にも、独自の敬語表現があるらしい。たとえば関西地方の方言はかつて、敬語表現が豊富だったという。しかし現在、そういった「関西の敬語」はほとんど死語だ。敬語はすでに統一されようとしている。日常的につかう「口語」がいまだに統一されていないのと対照的だ。
と言ったわけで、東京ではなかなか聞くことのできない敬語表現が、この関西にはあふれている。
今までに挙げたのは序の口で、ら抜き言葉、さ入れ言葉、二重敬語、あらゆるバリエーションの「問題な日本語」を聞くことができる。
繰り返すが、私はそういった表現を問題だと思わない。
矯正しようだなんて思わない。とんでもございません。


