2009年04月02日

まぼろし の にほんこくご


 標準語圏で23年間を過ごした私は、言葉の乱れが非常に気になる。
 しかし関西に出てきて衝撃を受けた。関西の人間たちは、東京の人々のように「正しい言葉遣い」を積極的に意識してはいない。
 逆にいえば、東京の人間は必要以上に「正しい国語」を追い求めているように感じる。おそらく自分たちの「土地の言葉」の意識が希薄だからだろう。当然のように、東京の言葉も日本語の一方言だ。たとえば「うだるような暑さ」というときの「うだる」は、もともと江戸言葉で「ゆだる」を意味していた。他にも有名なところでは、青梅弁の「うざってえ」がある。そうした土着の言葉を意識しないがゆえに、「正しい国語」を気にかけ、自分たちの言葉を矯正してきた。結果、関東には巨大な標準語圏が生まれた。
 しかし、だ。
 関西の人間たちは「正しい国語」を気に掛けない。関東では問題だとされる言葉遣いが、平気で使われている。『問題な日本語』という書籍はベストセラーとなったが、それは関東だけでの話で、この近畿の地では見向きもされなかっただろう。そもそも「国語」は、人工的に開発された言語だ。日本語には様々な土着表現があり、言語圏があり、単一の言語とは言い切れないほどのバリエーションが存在している。
 そうした言語の違いは意識の違いを生む。しかし我々は、そのような違いなど無いと幻想してしまう。「私たちは同じ日本人で、同じ文化・言語の中にいる」という物語を頭から信じてしまう。少なくとも私はそうだった。だから現在、近畿の人間たちの言葉遣いに、大きな違和感を覚えている。
 重要なことは「私たちは違う」という意識を持つことだ。自分の言葉が通じない相手、自分の常識が通じない相手。同じ「日本人」ではあるものの、埋めがたい差異があるのだと、認識しなければならない。
 そして、そういった文化的な差異は、無理に埋めようとしないこと。日本人対外国人のあいだでは、自然と生まれる関係だ。異文化交流におけるルールだといえよう。しかし違う地方出身の日本人のあいだでは、なかなか簡単にはいかない。前述の幻想物語があるために、お互いの違いをすぐには承服できない。


 今回は、東京出身の私が、関西でどうしても気になる言葉遣いを紹介する。
 一部の人には不快に感じられる記事だろう。
 世の中には、自分たちの言葉遣いをとやかく言われるのを好まない人々がいる。「教えて!goo!」に《関西弁の「いてる」と「居る」は、どう違うのか》という質問が上がっていた。それに対して一部の回答者がマジギレしており、読んでいて痛々しかった。
 が、すでに書いたとおり、そういった気になる言葉遣いに対して「間違いだ!矯正せよ!」とは思わない。そういった違いがあるんだね、おもしろいね……そういう感覚で、今回の記事は読んでほしい。
 以上が、長大な前置き。納得できない人はブラウザを閉じよう。




◆「よろしかったでしょうか」

 コンビニや飲食店で耳にする表現。
 たとえば弁当を買ったときに、「お箸はお付けしてよろしかったでしょうか」と言われる。こちらがまだ「箸をくれ」とも「くれるな」とも言っていないのに、一方的に「よろしかったか」と訊かれる。

 違和感。すごくぞわぞわする。

 この表現は関西に限らず、最近では東京でも聞くようになった。しかし東京においては、明らかに「若者の言葉づかい」として認識されている。つまり新しい表現で、一昔前の東京では聞かれなかった、と考えられている。
 実際のところ、この言葉が古いのか新しいのかは判らない。しかし東京では前述のように、正しい国語を身につけることが是とされる。新しい表現を使うのは、破廉恥で、無教養な証拠とみなされる。それゆえに、分別のある大人はこういった表現を忌避する。したがって、東京で「よろしかったでしょうか」という言葉は、若者しか使わない。
 一方、関西では普通に使われていることに驚いた。高島屋や大丸の店員が(相応のお年を召した方々が)平気で使っている。

 なぜ過去形にするのだろう。
 過去に生じたモノゴトに対して許諾を求めるのであれば、「よろしかったでしょうか」でもオカシクない。例えば居酒屋の店員が、客の注文を復唱した後に言う「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」ならば理解できる。すでに生じたモノゴト(=注文の復唱)に対して確認・許諾を求めているからだ。(それが敬語的に適切かどうかはまた別の話)
「表現が婉曲になればなるほど、丁寧な表現になる」という発想なのだろうか。そういった発想の違い(価値観の地域差)なのだろうか。
 この表現の発祥は、居酒屋等のマニュアルではないかと私は考えている。
 先述のような「注文を確認するときの決まり文句」としてマニュアルに書かれ、それが広まったのではなかろうか。もともとは「過去形」だったものを、「丁寧な表現」だと勘違いした誰かが使い始めた。そして、その用法がそのまま広まったに違いない。 




◆「来られる」

 「来ることができる」という意味ではない。
 東京において(少なくとも私の周囲で)は、「来る」の尊敬表現として「いらっしゃる」または「お見えになる」を使っていた。可能をあらわす「られる」と区別するためだ。私自身も、敬語表現としての「られる」は最低限で済ませようと心掛けている。
 一方、近畿の人は好んで「られる」を使う。「見られる」「食べられる」等々。「ご覧になる」だとか、「召しあがる」といった、敬語用の動詞はあまり使われない。(その一方で可能を表すときには「見れる」「食べれる」と言うのだから、なお興味深い。そういった表現をする人は、可能と尊敬を「ら」の有無で判別している!たぶん!)
 文法的には間違っていないだけに、伝わりづらいだろうな、この違和感。
「来られる」「見られる」「行かれる」「される」「やられる」etc...
 連発されると違和感を覚えるんです。
 ぞわぞわするんです。ほんと。




◆「**させていただきます」

 私にとって、これも耳障りな表現だ。
 たとえば企画の発表の際に
「それでは、ただいまより発表を始めさせていただきます」なんて言葉が使われる。まるで発表者が、誰かの許可を得て、恐縮しながら発表しているかのように聞こえるではないか。とくに許可・許諾を要しない場面でも、この表現は多用されている。
 すごく違和感を感じる。

 この表現を多用する人は、単に「謙譲」を表現するためだけに、この言葉を使っている。このフレーズに「許可・許諾」のニュアンスがあることを、あまり意識していないのだろう。
 
「する」の謙譲表現として、「いたします」という動詞がある。

 にも関わらず、関西では(テレビのアナウンサーも含め)冗長な「させていただきます」を使う。結果、「さ入れ言葉」と呼ばれるようなイレギュラーな言語表現もしばしば生じている。
 平成19年2月の文化審議会答申も、この表現について触れている。
http://www.bunka.go.jp/1kokugo/pdf/keigo_tousin.pdf 40ページ)
 この答申では、日本の敬語表現の分類を変え、それまでの3種類から5種類へと変えた。とても面白いので、一読をお勧めする。自分の「敬語のセンス」と照らし合わせながら、「あるあるw」「ねーよwww」とツッコミながら読むのがいいだろう。



◆なぜ敬語は難しいか
 今回とりあげた表現は、いずれも敬語だ。「よろしかったでしょうか」に関して言えば、おそらく店舗のマニュアル等に書かれていた表現を、そのまま使っているのだろう(そしてその用法が模倣され広まった)また、尊敬を表すために「られる」を使い、謙譲を表わすために「**させていただく」という表現を使う。

 いずれも「簡易に敬語表現を作る方法」だ。

 先に取り上げた「ご覧になる」「召しあがる」という言葉は、敬語でのみ使われる表現だ。個別に暗記する必要がある。一方「られる」を使えば、そういった単語を新たに覚えなくとも、敬語表現を実現できる。
「**させていただく」も同様。既存の動詞にそれら用言をくっつけるだけで、敬語っぽい言葉になる。
 たとえば、
「行かせていただきます」
「聞かせていただきます」
「見させていただきます」という表現。
「参ります」
「拝聴します/うかがいます」
「拝見します」
 といった特別な動詞を使わなくとも、敬語表現を実現できる。


 標準語圏ではない地方の人は、バイリンガルだ。
 自分の地方の言語がありながら、学校では「国語」を教育される。つまり、国語を使いこなすだけでも、東京出身者には想像できないほどのハードルがある。それに加えて敬語表現までも使いこなすには、さらにハイレベルな「国語」能力が必要となる。
 なお、各地方の方言にも、独自の敬語表現があるらしい。たとえば関西地方の方言はかつて、敬語表現が豊富だったという。しかし現在、そういった「関西の敬語」はほとんど死語だ。敬語はすでに統一されようとしている。日常的につかう「口語」がいまだに統一されていないのと対照的だ。

 と言ったわけで、東京ではなかなか聞くことのできない敬語表現が、この関西にはあふれている。
 今までに挙げたのは序の口で、ら抜き言葉、さ入れ言葉、二重敬語、あらゆるバリエーションの「問題な日本語」を聞くことができる。
 繰り返すが、私はそういった表現を問題だと思わない。
 矯正しようだなんて思わない。とんでもございません。

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2009年03月24日

一人当たりGDPと才能の無駄遣い

 日本人一人あたりのGDP低下が問題視されるようになって久しいが、その原因を探る言説の多く(とくに世論としてマスメディアにより喧伝されるもの)には、若者の弱体化を理由とするものが少なくない。すなわち、若い世代の創造性・生産性が低下した結果として、一人あたりGDPが低下したとする論理だ。
 しかし国民の「性質」と呼べるものが、そう簡単に変わるとは思えない。だとすれば、若い世代の創造性が経済的に評価されていないだけ、とも言える。動画共有サイトに見られる「才能の無駄遣い」タグは、その端緒を示している。このような「評価されていない」若い世代の創造性を生かすには、需要側の変化が求められる。簡単なことではないが、サブカルチャーのメインカルチャー化が必要となる。


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 ニュースを見ていると、暗い気分になる報道にしばしば出くわす。日本の一人当たりGDP低下もその一つだ。国民ひとり当たりのGDPが低下しているということは、私の、そしてあなたの生産性が低くなっていることを意味する。この事実を前に、私たちはたじろぎ、日本人としての誇りを傷つけられ、自尊心を失いそうになる。
 高度経済成長の時代を回顧するとき、日本人は自分たちの勤勉さや実直さ、執念深いまでの職人気質などを挙げる。そういった日本人らしさによって、敗戦の痛手から立ち上がり、経済大国として返り咲いた。
 映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー part3』には、印象的なシーンがある。1955年のブラウン博士(通称ドク)が故障した部品を手に、こうつぶやく。
「壊れるはずだ。日本製って書いてある」
 それに対して主人公のマーティ(1985年の高校生)は、
「なに言ってるんだよ、ドク。日本製は最高だぜ」
 30年間に生じる価値観の変化を、ロバート・ゼメキス監督は「日本製品の評価」を用いて表現した。親日家として知られる監督ならではの表現だが、一方で、30年間で日本企業がいかに高品質なものを生み出すようになったかを示している。日米貿易摩擦が顕在化したのは1970年代。高品質・高性能な日本の工業製品は飛ぶ鳥を落とす勢いでシェアを拡大していった。
 はたして日本人は、生産性のない、無能の集まりになってしまったのだろうか。かつて高度経済成長を成し遂げた勤勉さと職人気質は、消えてしまったのだろうか。



「生産性が下がったのは、若い世代の能力が下がったから」という言説を耳にする。ゆとり教育の弊害で、現在の若者はダメになってしまったらしい。無気力で、家に引きこもってばかりで、経済活動に貢献しない。そういった若者のイメージがマスメディアにより量産され、日本の現状を生み出した諸悪の根源として扱われている。ニート、フリーター、ハケン。そういった層に対する世間の言説はおおむね冷たい。最近では草食男子という言葉も出てきた。
 そういった若者の能力低下を嘆く言説は、若者の育ってきた諸環境に解決策を見つけ出そうと奔走する。たとえば「ゆとり教育」あるいは核家族化等々。競争のすくない環境で育った人間は生産性が低くなるのだという。本当だろうか。学校に長時間拘束して、創造的な活動に費やす時間を制限したほうが、かえって創造性の高い人間になるというのか。
 あるいは残業代のつかない違法な労働環境のなかで、過労死と隣り合わせで生活しているのはどんな世代だろう。「弱い若者論」が本当なら、そういった過酷な生活をする若者はごくわずかなはずだ。日本の若者は、本当に怠惰になったのだろうか。日本から「勤勉・実直」は失われようとしているのだろうか。


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 海外留学をした友人たちは、決まって「日本人は勤勉」だという。私自身の経験談ではないので恥ずかしいが、治安が良く、恐ろしいほどインフラの発達したこの国が、やはり一番暮らしやすいそうだ。そういった社会を支えているのは、日本人のまじめさだ。
 人材会社に勤める友人は、昨今の不況で急に仕事が少なくなった。あまり働いていないことに、彼女は「罪悪感を覚える」という。サービス残業に慣れ切った彼女にとって、定時で帰ることは「うしろめたい」のだ。

 経済情勢が悪くなると治安は悪くなる。暴徒化した失業者が警官隊と衝突する海外のニュースを、私たちはたびたび目にしてきた。シムシティというゲームにも、景気の悪化による暴徒化が再現されていて、これは世界の常識なのだと痛感する。
 その一方で、暴徒化した日本の失業者たちは何をしたか。
 公園に集まり、炊き出しを行った。
 その温厚さを見よ。

 動画共有サイトを開けば、「才能の無駄遣い」というタグのついた動画をいくらでも見つけることができる。膨大な時間と労力をかけて作成された動画は、どれも見ごたえがある。著作権的にはグレーであっても、製作者の執念的なこだわりを見てとれる。なかには驚くほど高品質な作品もあり、そういった動画には「金を払わせろ」というコメントが付き、「振り込めない詐欺」というタグが贈られる。職人芸的な創造性は、サブカルチャーの世界へ大量投入されている。しかし製作者のもとには一円も入らず、そのような創造性は経済に貢献できないでいる。


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 経済的な価値を生み出さない世界に、日本人の創造性は投入されている。
 では、「経済的に価値ある」製品に目を向けてみよう。
 記号によるマーケティングという発想は、バブル期の前夜にはすでに生まれていたそうだ。製品を機能ではなく、記号(ex 所有することの価値、消費することの価値)によって売ろうという発想だ。300km/h近くを軽々と出せるような自動車がつぎつぎに作られたが、そういった車を購入した人が、おしなべてドリフト族、ルーレット族になったわけではない。ごく一部の例外を除いて、ほとんどの所有者は「高性能なスポーツカーを所有している」ことに価値を見出し、その性能を生かした走行(公道では違法となる)はしなかったはずだ。つまり、機能より記号が重視されていた
 経済的に円熟し、機能の面で充分な製品を簡単に手に入れられるようになった日本人に対して、日本企業は記号による価値創出に腐心してきた。一億総中流と呼ばれる横並びな所得層。戦後の“民主的”教育により生まれた、均質な価値観。そのような日本市場に対して、マスメディアを使った商売がぴたりとハマった。逆にいえば、日本企業の多くは「機能で勝負する製品」か、「マスメディアで勝負する製品」か、二つの戦略しか持ち合わせていないことになる。※1
 ところが、いまや社長がベンツよりも軽自動車を選ぶ時代だ。消費者は製品に必要十分な機能があれば満足し、マスメディアに煽られた価値観よりも自らの価値観を優先する。機能もだめ、マスメディアもだめ。
 最近では健康ブームが吹き荒れている。メタボ対策の製品たち。厚生労働省がにわかにもたらした経済効果だが、これらは日本企業がもともと得意とする「高機能を売り物にできる」分野だ。このブームを見て私が感じるのは、日本企業の本質が昔から変わっていないということだ。

 一方で、経済的に無価値なはずの映像作品に「金を払わせろ」というコメントがつく。
 この現象はじつにおもしろいと私は思う。
 日本企業が心を砕いてきた「記号による価値創造」を、素人集団がいとも簡単に成し遂げているからだ。「金を払わせろ」コメントの大部分は本気ではないだろう。が、少額なら払ってもいいと私は感じる。ニコニコ動画にプレミア会員のいる理由だ。
 おそらくサブカルチャーの世界に投入される日本人の創造性は、以前から少しずつ増大し、蓄積していたのだろう。コミケ参加者の推移をみれば、その様子をうかがえる。それでもブロードバンドが一般的になる以前は、サブカルチャーはあくまでもサブカルチャーのままだった。ビックサイトに行かなければ参加できず、手に入れることも難しかった。
 が、地域的な壁はすでにない。作品を制作するための機材も、廉価化が進んでいる。著作権にからむ問題がまだ残っているものの、供給側の準備はおおむね整っている。
 あとは需要側の意識が変われば、閉ざされた創造性は解放され、経済的な価値を生み出すことになる。



 『遭難フリーター』という映画が3月28日から公開される。http://www.sounan.info/
 タイトルと、雨宮処凛が関わっていることからも判るとおり、まあ、そういう内容の映画だ。
 が、この映画の成り立ちに着目したい。この作品は、監督・岩淵弘樹が自前のビデオカメラテープ(計3万円也)で日記的に撮影した映像を編集したものだという。自らが貧困層の若者である監督が、自分の生活を撮影したものなのだ。
 この映画を、超映画批評http://movie.maeda-y.com/の前田有一はこう評している。
「これまでろくでもない人生を歩んでいた、駄目人間の中のダメ人間でさえ、3万円とアイデアがあれば、少なくとも面白いことが出来るということだ。その事実じたい、元気の出る話じゃないか。」
 まさに正鵠を得たり。
 漫然とビデオテープを回しているだけなら、それは「無駄な創造性」にすぎない。才能の無駄遣いそのものだ。
 しかし折しも現在、貧困が着目されており、その実態を見てみたいという「需要」が存在した。
 供給側の準備が整っているがゆえに、わずかな需要さえあれば、「無駄な創造性」に経済的な価値を与えることができる。

 この映画がどれほど売れるかは分からないが、少なくとも監督・岩淵弘樹にとっては貧困生活を抜け出すきっかけとなるだろう。わずかな賃金で派遣社員として働いているよりもずっと経済に貢献できるはずだ。
 監督・岩淵弘樹は、東北芸術工科大学映像コース出身とある。もともと映像制作の知識・技術を持ち合わせていた。彼のように自らの技能を眠らせている若者は少なくないだろう。供給を行う環境はあるのに、需要がないため日の目を見ない。


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 サブカルチャーに需要が無いのはなぜだろう。
 原因のひとつは、マスメディアがサブカルチャーを異質なものとして排斥してきたことにある。
 が、ここでありきたりなマスコミ叩きをするのはやめておこう。
 ただ、映像作品をめぐって、混ざり合いそうな価値観が、不自然に分離した状態にあると私は感じるのだ。


『鴨川ホルモー』が実写映画化される。http://www.horumo.jp/index.html
 この話を聞いて私は「なぜ実写なんだ!?」と叫んだ。原作のあらすじだけでも知っていれば、実写化するにあたって「“アレ”はどうやって映像化するのだろう」という疑問がわく。この作品を映像化するなら、間違いなくアニメだろうな、と私は考えていた。折しもアニメ版『時をかける少女』がヒットを飛ばしているころで、細田守監督がもしも映像化を手掛けたなら、と妄想を膨らませたものだ。
 なぜアニメではないのか。
 客が集まらないからだ。

 アニメを見る層には、鴨川ホルモーの面白さを訴えないし、
 鴨川ホルモーを面白いと感じる層には、アニメを訴求しない。
 不自然ではないか。

 ごく普通の主人公が、超自然的な能力を身に付け、非現実的な争いに巻き込まれる。これは少年マンガの王道だし、日本古来の伝統をモチーフとして織り込むのは「東方」と同じだ。おなじ作者の『鹿男あをによし』なんてセカイ系の王道といえよう。(※2)

「一般人用」の物語と「オタク用」の物語とに、もはや構造的な差異はない。
 ただ「それぞれの個人が、それぞれの好む作品を鑑賞する」段階へと達していないだけだ。取り払うべきなのは、無意味な文化的棲み分けだ。棲み分けによる障壁があるからこそ、サブカルチャー的なるものに対して適切な需要が生じていない。だからこそ、才能の無駄遣いが、「無駄遣い」のままに終わってしまっている。日本人の職人的な創造性が、経済的価値を生み出せずに埋没している。


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 まとめます。
 日本人は怠惰になったり創造性を失ったりしていない。日本人はいまでも、おおむね勤勉で、実直で、職人的な創造性を持っている。一人当たりの生産性が低くなっているのは、そういった日本人の性質が現在、経済的に評価されないから。
 動画共有サイトに見られる「才能の無駄遣い」は、そういった評価されていない創造性のひとつ。しかし「才能の無駄遣い」は、少しでも需要があれば経済的な価値を持つ。そういった「才能の無駄遣い」の需要拡大を阻んでいるのは、映像作品に対する文化的棲み分けではないだろうか(この部分は問題提起)



 日本国内の映画興行収入ランキングは、今でも上位をアニメ作品が占めている。
 一方で、宮崎駿以外のアニメ監督があまり知られていないのも事実だ。
 押井守、大友克洋、庵野秀明など他国の映画作品に影響を与えた映像作家がいる。原恵一や今敏などは、人間ドラマを描かせたら邦画界のトップレベルのはずだ(趣味の問題
 にもかかわらず、映像産業はいまだに「一般人用」と「オタク用」とに分断されている。
 これって淋しいことだと思う。
 だって、見てみたいじゃないですか、細田守の『鴨川ホルモー』とか
 新海誠のリメイクした『南極物語』とか。






※1)と言ったら大げさすぎるだろう。実際にマーケに携わっている人ごめんなさい。
※2)セカイ系:ライトノベル等のジャンルのひとつで「主人公の日常的な活動が世界の運命にかかわってしまう」ことを軸に構成される物語のこと。『ブギーポップは笑わない』『最終兵器彼女』『涼宮ハルヒの憂鬱』 人によって定義が少しずつ違うので議論に深入りはしません。終わらないから。
posted by rootport at 18:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月14日

電脳コイル実現計画



すげー。

今は試作段階で不格好だけど、将来はこういうマルチデバイスを一個だけ持ち歩く時代がくるんだろうな。

posted by rootport at 17:07| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月12日

東京地検の握っているもの

今回はメモ書き程度。
事件が落着したら、またこれについてまとめるかも知れない。

まず、これまでの大まかな流れを日経新聞の記事で追ってみよう。



2009/02/02 7:00
鹿島受注工事、コンサル料30億円隠す? 大分の社長ら
 大分市のコンサルタント会社側が、大手ゼネコンの鹿島などから受領したコンサル料など計約30億円の所得を隠し、法人税を免れた疑いがあることが1日、関係者の話で分かった。東京地検特捜部は、このコンサルタント会社「大光」(同市)や同社社長(65)を法人税法違反(脱税)容疑で近く立件する方針を固めたもようだ。
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090202AT1G0101T01022009.html



2009/02/10
「大光」社長、隠した30億円で株購入?
 大分市のコンサルタント会社「大光」の関連会社の脱税事件で、法人税法違反(脱税)容疑で逮捕状が出ている大光の大賀規久社長(65)が、大手ゼネコン鹿島などから受け取って隠した資金で約30億円分の株式を購入していた疑いがあることが10日、関係者の話で分かった。株購入は本人や親族名義で大半がキヤノン株だったという。
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090210AT1G1000N10022009.html



2009/02/10 19:43
脱税容疑で大分のコンサル社長ら7人逮捕 東京地検
 大分市のコンサルタント会社「大光」の関連会社の脱税事件で、東京地検特捜部は10日、「ライトブラック」(大分市)で2006年5月期までの2年間で約9億7600万円の所得を隠し、法人税約2億9200万円を免れたとして、同社代表取締役で大光社長の大賀規久容疑者(65)ら7人を法人税法違反(脱税)容疑で逮捕した。
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090210AT1G1002110022009.html



2009/02/10 23:14
御手洗会長「友人だが弁護する気はない」 「大光」社長逮捕
 日本経団連の御手洗冨士夫会長(キヤノン会長)は10日夜、コンサルタント会社「大光」社長の大賀規久容疑者(65)の逮捕について「違法な手段で納税を免れたとすれば許されない。長年の友人だが弁護する気はない」と話した。
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20090210AT1G1004210022009.html


2009/02/12 7:00
大賀容疑者経営の建築会社、受注の96%がキヤノン関連
 法人税法違反(脱税)容疑で逮捕された大賀規久容疑者(65)が経営する「大光」など3社が2003―08年、キヤノン関連工事の下請けとして計約47億円分の工事を受注していたことが11日、東京都と大分県に提出された工事経歴書で分かった。
 このうち脱税容疑で摘発された建築業「ライトブラック」(大分市)は、受注工事の約96%にあたる約38億円がキヤノン関連だった。大半は鹿島や大林組、清水建設など元請けからの下請け工事だが、キヤノンから直接受注した工事もあった。
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090212AT1G1100611022009.html



 なお、これらのニュースに先立って、次のような記事も出ていた。


毎日新聞 2009年1月31日 東京朝刊(以下抜粋)
 大光の大賀社長は実兄が御手洗冨士夫キヤノン会長(日本経団連会長)と大分県立佐伯鶴城高校(大分県佐伯市)の同級生で、自らも同窓。特捜部は、鹿島などが、キヤノン発注工事の業者選定に力を持つとされる大賀社長に、受注の見返りに裏金を渡したとみて解明を進めている。
 キヤノンは大賀社長について「御手洗会長と同郷の知人で、休日などに会食で一緒になったことがある」と説明し「大賀氏の業者選定への関与は承知していない」としている。

 キヤノンの工場建設などに絡み、大光グループが鹿島からの裏金や仲介手数料約30億円を申告せず、数億円の所得隠しをしていたことが毎日新聞の報道(07年12月)で表面化。グループ役員には国税当局、大分県議の各OBらが名を連ね、工事受注を狙う建設業者は大賀規久社長を訪ねる「大光参り」を繰り返していた。
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20090131ddm001040002000c.html



 また読売新聞ではこのスキャンダルを、かなり挑戦的な見出しで取り上げている。


大賀容疑者「御手洗家と200年の仲」、キヤノン関連仲介
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090211-OYT1T00457.htm?from=navr




さらに、「ウワサ」のレベルでは、かなり早い段階から情報が漏れていたらしい。


2008/10/22
[ カリスマ伝 ] 第2回 御手洗冨士夫〔キヤノン会長〕
後編 リストラの果てに

 詳細は後述するが、9月に入って東京地検特捜部が大分県のキヤノン工場建設を巡る裏金と脱税疑惑の捜査に近く着手するとの観測が流れ始めた。御手洗自身に司直の手が及ぶことはなくても、キヤノンのトップとして道義上の責任を問われるのは必至。スキャンダルの噂と諮問会議人事の複合効果で、政財界で昨年来囁かれていた「御手洗辞任説」が再燃することも十分に考えられる。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/114





 この件について一部のブログでは、「御手洗氏の手に30億円が渡ったもの」として分析しているエントリーもすでに見受けられる。
 そうした記事の中ではおおむね、この30億円は経団連会長への選挙資金として作られた裏金であろう、と結論付けられていた。たしかに当時、選挙戦を争ったライバルはそうそうたる顔ぶれで、最終的には「実弾」の量がモノを言ったのだろうと予測される。
 とても興味深い分析だが、事件に関する情報はごくわずかしか明らかになっておらず、現時点でそのような分析をするのは「邪推」と言わざるを得ないだろう。

 東京地検はどのような情報を押さえているのだろう。
 現在のところ、そのごく一部しか明らかになっていないのではなかろうか。
 今のところ私は、自分の見解はとくに定めずに状況を追いかけたい。


posted by rootport at 19:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月03日

あなたの努力はなぜ認められないのか





 今回は勉強とか関係ない話をする。
 ふと思いついた私のアイディアだ。

「他人が努力を認めてくれない」ことの背景を考察する。
「評価してほしい人と懇意になることで、あなたの評価は認められる」ことが結論になる。
 仲良くなってエコひいきしてもらおう、という意味ではないぞぅ。




1.ヒトは努力に応じて成長する。

 私は楽天家だし、人間性についても基本的には明るい考え方を持っていたい。非論理的なシニシズムはまっぴらごめんだし、同じく非論理的ならポジティブに考えたほうがいい。SF小説ならジェイムス・P・ホーガンの著作が大好き。原則的に、人間の善意に期待しているし、理性は本能を克服できる――なんてノーテンキなことを言ってしまえる。


struggle001.jpg

 というわけで、「努力をすればするほど結果として報われる」というモデルを考えたい。
 このグラフにおいて横軸(St)は努力の量を示している。Struggleの頭文字だ。

 そして縦軸――努力の「結果」に何を置くかが問題だ。
 たとえば努力して試験勉強をして、学歴を手に入れる。資格を手に入れる。あるいは頑張って仕事をして、履歴書にかけるような輝かしい職歴を手に入れる……。こういうことを考えてみるに、その人の持つ「お金になる資質」を置くのはどうだろう。もちろん努力の結果としてカワイイ彼女をゲットするだとか、日本国内すべての駅で乗降者するといったような、お金に換えられないモノを時にヒトは求めてしまう。
 しかし、ここではあえて無視する。企業会計原則の土台である3つの公準の一つ「貨幣的評価の公準」をここにも持ち出すわけだ。日本国内すべての駅で乗降者したら、鉄道ファンの間ではヒーローになれるかも知れないし、経験をもとにブログを書けば、アフィリエイトで稼げるかも知れない。つまり全国の駅をめぐった経験には、それだけの貨幣的価値があったといえるわけ。もちろん本人の達成感や感動といった、お金じゃ買えない価値のほうがはるかに大きいはずなのだけど、ここでは「他のモノと簡単に比較できること」を優先する。なんといっても今回の目標は「努力が認められない理由」を明らかにすることだ。つまり「他者からの評価」が重要なわけだ。
「他の人から見ても簡単に価値がわかる」という点で、お金に換算できる部分だけを抜き出して考える。
 たとえばあなたは自動車の運転免許証を持っているだろうか? 学生時代、免許証を持っているだけでアルバイトの求人数がぐっと広がったのを覚えているはずだ。つまり、そういったアルバイトで稼ぎだせる可能性のある金額が、あなたの持っている「自動車を運転する権利」の価値だといえる。グラフでは横軸に、免許証を取るために費やした努力を、縦軸に免許証の価値を置くことができる。努力を続ければよりレベルの高い運転免許証(特殊とか大型とか)を手に入れて、より価値の高い「運転する権利」を手に入れることができる。スポーツカーで女の子と夜の横浜ドライブして口説き落とした――というようなお金に換えられない価値は、このモデルでは無視する。ていうかそんな経験、私にはない。


 というわけで縦軸は、その人の持っている「お金になる資質」とした。その人自身の資産的価値・資本的価値といってもいいだろう。調べてみたらhuman capitalという言葉があるみたいなので、そのまま借りてきた。だから縦軸は(HC)。human capitalの意味を全然知らないのにおこがましいにもほどがあるよね。後できちんと勉強します。


 努力をすればしただけ報われる、という考え方に立つと、上記のようなグラフを描くことができる。努力によって得られるその人の「価値」は、努力に対して増加関数になるはずだ。ここでは簡単のため、直線であらわした。
 ていうか「人」を「お金に換算した価値」って、やっぱりすげー嫌な表現だな。
 本当は「お金に換えられない価値」のほうが大事だと思っている。私はそういう人間だと、くどいようだけど主張しておこう。これは「他人からの評価」を考えるモデルだから、仕方なくこんな拝金主義的な定義にした。わかってください。



2.ヒトの資産的価値には、本人の努力によらない部分がある。


 ――ところが、である。
 努力以外の要素に、ヒトの資産的価値は大きく影響を受けてしまう。分かりやすいのは肉体の差によるもので、たとえば「身長が足りなくてキャビンアテンダントになれない」といった状況がすぐに思い浮かぶ。スポーツには体格により向き・不向きがあるというし、「お金に換算できる価値」だけを考えると、本人の努力以外の要素により生じるモノもある。


struggle002.jpg

 そういった要素は曲線の切片として表れるはずで、グラフでは(n)で示すことができる。
 たとえば親が文学研究者で、書庫のあるような家に暮らしていたとしたら、その子が高学歴を手に入れる可能性は高くなると思う。その一方で、パソコンも満足に買えないような貧困家庭に生まれたなら、その子が学歴を手にする可能性は低くなりそうだ。この子たちの情報と触れあう機会には大きな違いがある。しかもその違いは本人の努力の有無によって生じたものではない。
 ちょっと皮肉っぽい言い方をすれば、親が政治家だったというだけで、相応の収入に結び付きそうなものだよね。こういうのも(n)に含まれる。

 本人の努力を否定するつもりはない。本人の努力はマジぱねぇ。
 けれど本人の努力以外の部分でも、私たちの資産的価値は生み出されている。
 私自身、今の私があるのは、私の生まれ育った土地の風土・家族の援助・そして豊かな友人たちによるものだと深く感謝している。私の(n)にはそれらも含まれる。




3.成長の速さには個人差がある。

 それではいよいよ「他者との比較」に入ろう。
 努力によってどれだけ成長できるかは、人によって違う。
 わかりやすい例がみなさんの頭脳だ。生まれながらに物覚えのいい頭脳を持っていれば、暗記力勝負の受験戦争を生き延びやすく、高学歴を手に入れやすくなる。試験に強いということは、資格取得もたやすくなる。
 手先が器用であるとか、仕事の手順・要領がいいとか、そういうものも大事だ。あるいは周囲の人間からのサポートがあるかどうかも影響しそうだ。
 同じ質・量の努力をしても、結果は変わる。
 ヒトは均質ではないのだから、これは間違いない。



struggle003.jpg

 で、それをグラフで示すと上のようになる。
 ここでは個人(A)と個人(B)とを比較している。
 努力の報われる率――つまり成長率は、曲線の傾きとして示される。
 運転免許証の話に戻るけれど、ほら、あなたの周りにもいたでしょう? 期間ギリギリまでかかってやっと教習所を卒業できる人。あるいは通学なのに2〜3週間であっさりと卒業・免許取得をしてしまう人。要領の良し悪しや、器用さ、周囲のサポートなどの影響で、同じ結果を得るために必要な努力は大きく変わるはずだよね。





4.“生まれつきのモノ”にも個人差がある。


 これはもっと分かりやすい。
 身長が低いというだけで、その人はある程度の資産的価値を失っている。

V=I×R
ただし、V:[充分な身長があることの価値]
    I:[キャビンアテンダントの収入(金額)]
    R:[キャビンアテンダントになる確率(%)]

 なにもキャビンアテンダントだけじゃなくて、身長があると有利になる仕事はたくさんある。上の式ではキャビンアテンダントの例のみを扱っているが、実際には「高身長だと有利な職業」について全てをVに加算するべきだ。
 例としてキャビンアテンダントを出したのは、私が好きだから。

 反対に、身長が低いからこそできる仕事もある。
 千葉にあるネズミの国でキャラクターを演じるには、ある程度小さい人じゃないとダメだ、という話を聞いたこともある。つまり身長の高い人は、それだけで「青い宇宙人の役を演じる価値」を喪失している。


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 グラフで表すとこうなる。(n)A、(n)B。
 本人の努力によらない部分にも、大きな個人差が生じるはずで、それはグラフの切片の差としてあらわされる。
 私は4年制大学に通えるだけの資金的余裕のある家に生まれることができた。
 その点では金銭的な事情により進学をあきらめた友人よりも恵まれている。
 かといって親族に大企業の社長さんがいるわけではないし、就職には不安が多かった。「困ときに親族の誰かに雇ってもらえる価値」は私にはない。全国的にほとんどない。たぶん今後はもっと無くなっていくんだろうな。





5.ヒトは自分自身のことを普通だと思っている。


 ヒトは自分以外のことを知りえない。
 だから物事を判断するには、自分の経験を基準にするしかない。


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 グラフでは点線を引いたが、これは個人(A)が生まれながらに持っていた“価値”の水準だ。
 客観的に見れば(n)Aのぶん、生まれながらに価値を与えられている。家庭環境とかそういうの。
 だけど(A)本人には、自分自身が生まれながらに与えられた価値を、自分の個性的なものだと認識できるだろうか。自分と他者とを比較して、その差を客観的に認識することができるだろうか。
 親が政治家であるとか、そういった飛びぬけた条件があれば違うかもしれない。あるいは親が日本国籍ではない、とか。自分は特別であると認識し、自分の与えられている「価値」が普遍的なものではないと気付くことができるだろう。
 一方で、大多数の日本人は「中流幻想」から未だに抜け出せていないと聞く。
 だとすれば、自分の与えられた条件を「特別なもの」とは意識できないのではないか。



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 上の図では、その状況を表した。
「生まれながらに与えられたモノ」に差があることを、ヒトは具体的に理解することができない。だとすれば、グラフには切片が生じないことになり、自分の(グラフでは個人(A)の)努力と価値との関係は、原点から出発することになる。
 大学時代の友人に、実家は生活保護を受けているという人物がいた。
 彼の言葉によれば、「生活は楽とは言えなかったけれど普通の家だった」のだそうだ。
 いっぽうで大学時代の友人に、不動産会社社長の娘もいた。
 彼女の言葉によれば「たしかにお金もちだったけれど普通の家だった」のだという。

 おなじ「普通」という言葉で形容されていても、その内容が同じであるはずがない。彼は友人や高校教師の協力を得て、大学に入学した。一方、彼女は駿台予備校の出身だった。
 自分の生まれ育った環境や生得的な形質が「普通」だと、あなたは断言できるだろうか。世の中の平均点から見てどれぐらいの距離にあるか、一度でも考えたことがあるだろうか。考えても一銭の得にもならない以上、ほとんどの人はそんなこと意識しない。だから自分のことを普通だと思う。自分を普通だと思うから、グラフは上のようになる。



 さらに、個人(A)と個人(B)とが同じ量の努力をした場合を考えてみたい。


struggle007.jpg

 (A)と(B)とが等しい水準(s)の努力を重ねたとする。
 その結果を(A)から見ると、どのように見えるだろう。
 図中にも書いたとおり、(A)は錯覚を起こす。自分と同じ速度で(B)が成長するはずだと思い込んでしまう。

 家庭教師や塾講師のアルバイトをしたことがある人ならわかるのではないだろうか。高校レベルの微積分を理解するのに、1〜2回の授業で済む生徒と、何十回もの授業が必要になる生徒とがいる。
 私は大学のパソコン室で、情報教育の授業補佐をしていた。
 その時に顕著だったのは「エクセルを使いこなせるようになる」までの差だった。マス目どうしの関係をすぐに理解できる学生と、理解するまでに時間のかかる学生がいた。使い方を理解しても、それを即座に応用できる学生と、そうでない学生がいた。成長の速さには明らかに個人差がある。
 塾の生徒や講義の学生のように、努力している姿を直接見れば、努力量と成長量との関係(グラフの傾き)を見抜くことができる。が、他人が勉学に励んでいる姿なんて、日常生活ではまず目にしない。
 よって、ヒトが他者を評価するとき、他者の成長速度を自分のそれと等しいものと仮定しているはずだ。
 この錯覚をグラフに示すと、図では点線で示したとおり、自分の成長曲線と相手の成長曲線とが平行になることで表される。



struggle008.jpg

 では、同等の努力(s)を行った際の、結果について確認しよう。

 個人(A)は、(a)の水準の結果を出す。
 個人(B)は、(b)の水準の結果を出す。
 努力とは無関係な条件(切片)や、成長速度の違いがあるため、現実には同じ水準の努力をしていたとしても、結果には差が生じる。この差異はヒトが一人ひとり個性を持っている限り、不可避なはずだ。
 しかし「ヒトは自分を普通だと思っている」ことから、その差異の生じる原因が、努力の不足だと考えてしまう。
 したがって個人(A)は、個人(B)に対して「努力不足」を感じる。
 どのくらいの努力不足を感じるかと言えば、グラフでは黄色矢印で示した範囲がそれにあたる。



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 結果のみに着目して「努力不足」を訴えるのは、現実に対する想像力が欠如しているからだ。
 ヒトは一人ひとり違う以上、同等の努力をしても結果には差異が生じる。差異の生じた原因を「努力の量」だけに限定して追求することはできないはずだ。

 そして今回の疑問、「あなたの努力はなぜ認められないか」について答えよう。
 一つの原因は、あなたが「結果がすべて」な環境にいるからだ。この時はどうしようもない。どんなに努力して路上ライブをしても、他人を感動させられる演奏ができなければ、ミュージシャンとして成功することはできない。努力の過程は面白いストーリーとして語られるが、ユーザーが求めているのは「音楽」という結果だ。努力は付随的なものでしかない。充分な結果が出せるまで、ねばり強く努力を続けるしかない。ただし、残念なことに人生は有限だ。私がどんなにあがいても、ゲイツの年収をたたき出すことはできないだろう。努力には限界がある。したがって出せる結果にも限界がある。

 もう一つの原因は、評価者によって、あなたの努力が過小評価されているからだ。この記事の考察で扱ったのはこちらだ。
 あなたの成長速度や、生まれ持った資質などを、評価者にきちんと伝える必要がある。努力不足を評価者が責めるのは、その評価者の想像力が不充分だからだ。そして完璧な想像力を持つヒトは、おそらくいない。小説の中の名探偵ぐらいのもので、生身の人間ならば想像力に限界がある。ならば、その想像力を補ってやればいい。つまり、あなたの生まれ持った資質や成長率を、評価者に理解してもらうのだ。「評価者と懇意になること」は、その近道だと考えている。
 子供の努力を認めない親はあまりいない。なぜなら親から見れば、子供の生まれ持った資質や成長率が自分と違うのは当たり前だし、「違いの大きさ」をきちんと認識できる。親子は究極の「懇意な仲」なのだ。したがって、子供の結果が伸び悩んでいる時にも、その子供の努力を、努力単体で認めることができるのではなかろうか。
(とはいえ最近の親にはそれが出来ないヒトも少なくないとか)


 ヒトには個体差がある。
 これは紛れもない事実だ。
 その個体差を努力で補うことはできるが、「努力の影響」にさえも個体差が潜んでいることを、この記事では主張した。
「努力次第で夢は叶えられる、諦めるな、努力すれば人は何にでもなれるんだ!」――耳にすれば心地よい言葉だが、その背後にはヒトの個体差を無視した幼稚な現実認識がある。一人ひとりが同等のポテンシャルを持ち、同等の成長速度を持つという仮定のうえに成り立つ主張だ。ヒトの個体差を認めない考え方なのだ。大腸菌でさえ、個体ごとに差異があるというのに。

 私は私になるしかない。あなたはあなたになるしかない。
 それは素晴らしいことだ。
 ステレオタイプな人間性を準備し、押しつける思想は、原始的な思想だ。




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 面白いブログの紹介。
 私の考えていることに近いことを書いてくれている。

 Chikirinの日記《業界別の“壊滅度”リスト》
 http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20090108

 風観羽
 http://d.hatena.ne.jp/ta26/20090122


 考えていることはこの人たちと似ているのに、なぜ私の日記はこうも偏った論調になってしまうのだろう。考えられる理由のひとつは、「仮想論客」を想定してしまうから、だろうか。言葉の選び方や論理展開に攻撃的な部分があるのかも知れない。反論されたら反論で返すぞ! 覚悟しろ! みたいな姿勢が背後にあるから、書いているうちにどんどんバランスを欠いていく。エキセントリックになっていく。学生の頃、英語ディベートに触れた弊害……ということにしておきたい。
 それと、ここでもやっぱり注意すべきは“構造改革”という言葉。以前にも書いたけれど、この言葉には生まれつきイデオロギーの色がある。構造改革という言葉を使う人に出会ったら、その人が、その言葉をどういう意味で使っているかには気をつけたい。言葉通りに「何らかの構造」を「変えよう」と言っている場合も、もちろん多い。余計な規制や利権をお掃除して綺麗にしましょう、という論調の人たちだ。しかし一方で、もっと信念的(宗教的?)な意味で使っている人もいる。“人間性”にまで言及する論調の人たち。「イデオロギー的な意味での“構造改革”」が私たちに求める人間性に、私はまったく同調できない。
「格差は能力の差です(笑)」
「競争はしんどい。だから甘えが出ている(笑)」

 さらにさらに、「自分にとって好ましい意見のページばかりをブラウズする」ことの弊害についても、一度考えておきたい。サイバーカスケード。これについてはまた今度。


 最後におきまりの一言で締めくくろう。
 私でも思いつくぐらいなのだから、今回の記事にあるような内容はすでに誰かが思いついているはずだ。そして研究したり本にしたりしているはず。
 そんな「誰か」を知っている人! ぜひ教えてください!

 それでは。
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2009年02月02日

猫の首に鈴をつける

 前回の記事に書いたばかりの「税率」のお話。
 タイムリーにこんなニュースが出ていた。


日本の最高税率、世界4位の高さ 民間調査

 日本の個人にかかる所得税などの最高税率が、世界各国の中で4番目に高い水準にあることが民間の調査でわかった。日本の所得税・住民税を合わせた最高税率は50%で、高福祉・高負担といわれるデンマークスウェーデンなどに次ぐ。政府は昨年末に消費税、所得税など税制の改革の道筋を示す「中期プログラム」を策定したが、税率に見合う社会保障などの充実を求める声も高まりそうだ。

http://www.nikkei.co.jp/news/main/20090202AT3S0901101022009.html




 年明け以降ずっと、日経新聞は「社会保障拡充」の世論を作ろうとしているように見える。
 しかし労働者保護・セイフティネットの切り捨てという新自由主義的な政策を強く推し進めた勢力には、当然ながら財界も含まれている。そして日経新聞の読者層は、おもに企業の経営層だ。この新聞はそういった規制緩和にもろ手をあげて賛成してきた。
しかし現在、「雇用流動化」という言葉を旗印に行われた政策が、現実には流動化を阻害し、社会階層を固定化するものだったと明らかになってしまった。そして世論が一気に逆戻りし、「企業の社会的責任」という言葉が跳梁跋扈しようとしている。こうした中で日経新聞をはじめとした産業紙が社会保障の拡充を訴えるのは、「雇用の責任を押し付けないでくれ」という企業経営の立場の代弁なのではないかと思える。

 ところで雇用が不安定になるのは経済情勢によるものであって、誰かが責任を引き受けることによってどうこうできるモノではない。
 また「生産者」は社会の中で唯一、富を生み出す存在であり、その社会的な意義はまず「儲けること」にあるはずだ。生産者の合理的行動と労働者の合理的行動とは、絶対に一致しない。生産者の合理的行動のみを助長すればどうなるか、その結果は明白だったはずだ。

 正社員の既得利益、高齢者の既得利益と、その不平等さが叫ばれている。企業の既得利益である内部留保を開放せよ、という声。
 それらを見ていると、懐かしの「囚人のジレンマ」を思い出す。安定な戦略が「しっぺ返し」しかないとすれば、私たちヒトの理性・知性は何のためのものなのか。



 雇用の流動化は将来的に必ず解決せねばならない課題だ。
 たとえば勝間和代や本田由紀などが、これも関して目立つ発言をしている。重要なのは、その目的を達成するための「方法」だ。

 現在までの「雇用流動化」のための政策は、複合的な経済政策の一部分だった。その経済政策パッケージにはたくさんの政策が同時に含まれており、そのなかには福祉・公共サービスの縮小と、労働者保護廃止とが含まれている。しかもこれらは、この経済政策パッケージにおいて最重要課題の一つだ。
 前述の彼女たちの主張と本質的に違うのはこの点だ。彼女たちが理想的とするような雇用の流動化は達成しがたい。人的資産(職能)の蓄積を政策的に手助けしようという彼女たちの発想は、「合理的な経済主体」という言葉に色づけされた自己責任論によって却下される。

 方針転換した(?)日経新聞の訴える、社会保障の拡充やセイフティネットの整備、それに加えて職能蓄積の手助けといった政策を打つのであれば、いままでの経済政策パッケージとは決別する必要が生じるだろう。そのためには、この政策の背骨となっている思想――世界中を席巻していた神話に対して、決然と批判・否定をする必要さえ生じる。
 あまりにもへヴィ。あまりにも面倒くさい。「今まで通りで大丈夫だよ」という考え方を探したい気持ちにもなる。

 判断は私たち一人ひとりに委ねられている。


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2009年01月28日

断片化するクーポン券




「不況とは何か」をめちゃくちゃ分かりやすく説明したコラムにぶつかった。
 経済に興味を持てない人にオススメ

「経済を子守してみると」
 http://cruel.org/krugman/babysitj.html

 著者はポール・クルーグマン。
 Wikipediaを読む限り、すごい人らしい。
 ただし、彼が「どのくらい」すごいのか理解できないのが勉強不足の悲しいところ。
 クルーグマンの主張は一貫している。
金融緩和だー! 福沢諭吉を擦れー!」


 そういえば湯川秀樹の書いた物理のコラムに、すごくわかりやすいのがあった。
 小学生向けに書かれたモノで、私が理科好きな子供になった原因の一つだ。
 どんな分野でも、本当に極めた人は大抵、他人に説明するのも上手い。



 何ひとつ極めていない自分が悲しい。

 もっとつぶしのきく理系になればよかった。




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 バズワードとして一段落した感のある「ブログ論壇」だけど、今になってその面白さに目覚めてしまった。

 この人のブログとか、すげー面白い。

債券・株・為替 中年金融マン ぐっちーさんの金持ちまっしぐら≫
 http://blog.goo.ne.jp/kitanotakeshi55/


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2009年01月21日

ニュースの価値は

麻生首相を「漢字」で挑発 民主の石井副代表


 麻生太郎首相の漢字の使用、読み方をめぐり、20日の参院予算委員会で、民主党の石井一副代表が首相にかみつく一幕があった。

 石井氏は、月刊誌「文芸春秋」の昨年11月号に掲載された首相の手記で使われた「就中(なかんずく)」など12個の漢字を並べたボードを用意し、「相当高度な漢字だ。これを隠して、どれだけ読めるかやってみたかったが、先に渡してあるから今なら読めるだろう」と首相を挑発した。

 これに対し、首相は「多分、みなさんが読みにくいのは『窶し(やつし)』ぐらいではないか。後の漢字は普通、みなさん読める」と答えたが、さらに石井氏は「もしそうなら、なぜ未曾有を「みぞうゆう」、踏襲を『ふしゅう』と言うんだ。おかしい。強弁だ」と反論した。

※問題の12個の漢字はこちら
1)就中 2)唯々諾々 3)揶揄 4)畢竟 5)叱咤激励 6)中興の祖
7)窶し 8)朝令暮改 9)愚弄 10)合従連衡 11)乾坤一擲 12)面目躍如


1月20日14時47分配信 産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090120/plc0901201439005-n1.htm



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 ――どうでもいいだろうがぁ!

 怒りが湧きあがるより先に、虚無感に襲われる。これがこの国の政局か。公の場で漢字の読み間違いするほうもするほうだし、それを批判の種にするほうもするほうだ。
 しかしなによりも問題なのは、これが政局の焦点であるかのように報道するメディアだ。


 ニュースではまず政党の名前が出て、「どの政党が国をよくできるか」ばかりが話題になる。
 だが日本の政局は政党の名前だけで判断できるほど、単純ではない。
 たとえば派遣の規制緩和を強く推進してきたのは自民党であるが、その自民党内にこんな意見もある。

《加藤紘一「非正規雇用者の首切りを救うのは……」》
http://www.katokoichi.org/videomsg/2008/081228_1.html

 また派遣村での集会には、小泉改革の申し子・片山さつきが出席していた。
 http://sankei.jp.msn.com/life/welfare/090105/wlf0901051700001-n1.htm


「どこの政党が良いか」は非常に重要な話題だ。が、様々な主義・主張によって立つ人間が各政党内で入り混じっており、政党の名前や風評などで判断するのはあまりにも軽率だ。ましてや漢字の読み書きなどいわずもがな。

 私は主義・主張のぶつかり合いを見たいのであって、小手先の嫌がらせ合戦を見たいのではない。メディアにはもっと価値のある情報を流してほしい。


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 ニュースと言えば、外せないのはこの話題。


 オバマ新米政権がスタート 経済再生が最優先課題
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20090121AT2M2100H21012009.html

 オバマ米大統領、市場「監視の目必要」 バランスも意識
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20090121AT2M2100W21012009.html


 周知のとおり、オバマ大統領がよって立つ主義・主張は、今までのブッシュ・小泉路線とは大きく違う。所得の再分配を重視する姿勢は、近年の日米首脳には全く見られなかった。

 経済の問題と経営の問題は似通っているが、それをごちゃまぜにして考えてはならない。
「国際競争力のため」という言葉が乱舞し、所得再分配ができないという論理をよく耳にする。が、それは経営の視点に立った場合の意見だ。短期の財務諸表をよくするための意見であって、国全体を見渡す視線はそこにない。

「貿易黒字拡大→企業業績向上→国内総生産の増大→国が豊かになる」

 この流れが実現できれば、たしかに国は豊かになる。しかし現実には、国内総生産の増大ぶんは家計所得へと平等にいきわたることはなく、株主配当として国外へ流出し、さらに国外への投資は断続的な円高により立ち消えた。
 確かに「経済成長のために所得再分配が必須だ」と言うことはできない。ここ数年間、所得再分配の偏向はあったものの、GDPは成長基調だった。だがそれと同様に「所得再分配があったら経済成長できない」とも、言い切ることはできないのではないか。
 国の経済は、企業の財務諸表のみで成長するわけではない。

 オバマ政権は、どのようにアメリカ経済を復興させるのだろう。2ちゃんねるではオバマ大統領の「対中重視」の姿勢を「反日」と読み間違えた世論が吹き荒れている。彼らに言わせれば、オバマを当選させたのは中国人なのだそうだ。冷静さを欠いているとしか思えない。


 とにかく今、私の関心は経済にある。
 所得の再分配・経済復興・財政赤字の解消。
 オバマ大統領の立ち向かう問題が簡単ではないと、一見しただけで解る。果たして彼は、こういった問題を克服していけるのだろうか。そして2009年は歴史の転換点として語り継がれることになるのだろうか。

 イスラエルとガザについて、彼は沈黙をつらぬいた。
「テロとの戦い」という言葉も、前大統領から引き継いでいる。
 本当の「チェンジ」はなされるのだろうか。
 しかし今は期待しながら、ニュースを追いかけたい。







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2009年01月19日

置き去りにされる正当性


 じつは「どんな社会にも失業者はつねに存在する」ということが、統計的な調査により明らかにされている。以下、私自身の復習もかねて、フィリップス曲線と自然失業率について説明していきたい。




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 ケインズはその主著『一般理論』のなかで、「デフレ脱却と失業率の低下を実現するために財政出動を行う」というモデルを展開した。一方、フリードマン率いるマネタリストたちが直面したのは、インフレと失業が同時に生じるという現象だった。この現象を分析するなかで発見されたのがフィリップス曲線と自然失業率であり、ケインジアンの主張する財政出動政策が、長期的には無効であることを示唆している。


フィリップス曲線.jpg



 上記の図において、Pは価格、μは失業率を示している。すなわち(ΔP/P)は物価上昇率を意味する。統計的な調査により、物価上昇率(ΔP/P)と失業率(μ)との間には、曲線F-(1)で示されるような関係が見られると判ってきた。発見者の名にちなみ、この曲線を短期フィリップス曲線と呼ぶ。

 今、μ*の水準で失業が発生していると仮定する(A点)
 ここで財政政策を行うと、物価上昇率(ΔP/P)が高まり、ρ-1の水準となる。このとき労働者は貨幣錯覚をおこしているため、均衡点はB点の水準へと移動する――(ア)
 このときの失業率の水準はμ-(1)で示される。

 しかし時間とともに貨幣錯覚は解消されると考えられる。貨幣錯覚が解消されると、物価上昇にともなってフィリップス曲線が上にシフトし、F-(1)からF-(2)へと移動する。その結果、均衡点はCとなり、この時の失業率はμ*に戻る――(イ)

 ここでさらに財政出動をおこなって物価上昇率の水準をρ-(2)としても、長期的には均衡点はDとなり、失業率μ*は解消されず、物価上昇だけが生じることになる。すなわち財政政策は無効である。また貨幣錯覚を仮定しない長期フィリップス曲線はF*となり、失業率μ*を自然失業率という。



=== === === === === === ===



 このように、失業が常に生じているものだと仮定すると、ではどういった施策が失業者たちに対して有効なのだろうか、という新たな課題が生じる。その答えが「雇用の流動性を高め、失業を固定的なものとしない」という社会の構築だった。雇用流動性の創出が声高に叫ばれるのには、そういった背景がある。

 雇用の流動性を高める施策には、二つの狙いがある。
 ひとつは企業にとってのメリット。必要な時に必要な人材を確保できる。
 そしてもう一つは、雇用者にとってのメリット。斜陽産業で窓際族をしているよりも、他の産業で自分の能力を発揮したほうが幸せだろうという考え方だ。
 この二つの狙いをきちんと果たせて初めて、雇用流動化施策は成功と言える。

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2009年01月18日

不況という名の旧友と


 先日の記事にも書いたとおり、私たちの世代は物心つくころにバブル崩壊と遭遇した。「豊かな日本」という印象は薄く、日に日に疲弊していくこの国の姿ばかりが目に焼き付いている。
 戦後最長といわれた「いざなみ景気」も家計への所得分配は薄く、学生の身分では好景気の実感などまったくなかった。せいぜい都心部に遊びに出かけた際に、海外の高級車が少し目立つようになったぐらいのもので、例えば上野公園は、ブルーテントが消えたとは言っても、依然としてホームレスの巣窟だった。歌舞伎町の治安は著しく改善したが、町田では外国人を中心とする浮浪者の問題が深刻化していた。
 さらにこの期間において地域間での景気格差はますます増大したという認識を持っている。私のこの認識は主に小説やテレビドラマに影響されたもので、正しいとは言い難い。しかしこの間、東京都は財政黒字に転じた一方で、大阪府は膨らむ赤字を止められず、夕張市は財政破綻した。なぜこの国はこのような状態に置かれたのだろう。そしてなぜ抜け出せないのだろう。私たちの世代であれば内心誰もが興味を持っているはずだ。



 吉川元忠『マネー敗戦』(文春新書)は、この問いに対して「為替」という視点で鋭く切り込んでいる。八〇年代から日本とアメリカの新しい関係がはじまり、プラザ合意と、その後のバブル経済、そしてバブル崩壊と失われた十年があった。その間に、金融・為替といういわば「裏の経済」では何が起こっていたのか。この本はその記録であり、基軸通貨でありながら極めて不安定なドルによって、日本がどのような損失を被ってきたのかを書きとめている。初版が平成10年なので、決して新しい著作ではない。が、するどい分析が随所に見られ、特に舌を巻いたのは、サブプライムローンに端を発する昨今の金融危機・経済危機さえも予見していたことだ。単純に歴史記録としても一読の価値があり、未だに色あせていない。しかも読みやすい。



 端的に言えば、謎解きの本だ。
 空前の赤字国家であるはずの米国が、なぜ好景気を謳歌し続けられるのだろうか。本書はこの大きな謎に挑戦している。
 答えは単純で、米国が世界中から借金しまくって自国の財政赤字を補填しているからだ。さらに財政赤字を補って余りある借金をしているので、それを他国への投資にあて、回収益を出す。これだけならば、「世界中からの借金」によってすぐに首が回らなくなってしまう。が、ここで登場するのが日本だ。日本はアメリカへの最大の債権国である。しかし、アメリカに貸しまくったほとんどの金は「ドル建て」によるものだ。ここがミソとなる。

 例えば1ドル200円のときに、アメリカに金を貸したとする。例えば1000万円分、5万ドルを貸し付けたとしよう。そして償還時にドルが下落し、1ドル150円になっていたとしたらどうだろう。
「円建て債」であれば、借り手のアメリカ人は何とかして6万6000ドルを工面し、1000万円を返さなければいけない。
 ところが「ドル建て債」の場合、返すべき金額は5万ドルのままだ。日本人からしてみれば、1000万円貸したはずが、750万円しか帰ってこなくなる。

 たしかにアメリカ人から見たら、5万ドルの借金は5万ドルのままだ。が、先述の通り米国では自国の財政赤字を埋めて余りある金額を世界中からかき集めていた。そして余った金を他国への投資に回した。これが2つ目のミソだ。

 例えばあなたがアメリカ人で、借金をして5万ドルを手に入れたとする。その5万ドルで日本企業の株を買ったら、どうなるだろう。先述のとおり、1ドル200円ならば1000万円ぶんの株が買える。その後、ドルが下落し1ドル150円になったときに、その株券を手放すのだ。株価が1000万円のままだったとすれば、6万6000ドルを手に入れることができる。元手の5万ドルは「ドル建て」なので、返すべき借金は5万ドルのままだ。差額の1万6000ドルを利益とできる――。

 ここに書いた要約はあまりにも単純化しているので、誤解を招きそうで怖い。詳しくは本書を読んでほしい。
 また、日本は貿易黒字で手に入れた金を、なぜ円建て債ではなく、ドル建て債という形で運用したのだろう。吉川はこの問いに対して様々な理由を挙げているが、中でも私が関心を持ったのは「日本の証券市場の規制の多さ」についてだ。日本の証券市場は手数料や手続きが煩雑で、円建てで起債するのはコストの面で不利。だからドル建て債が流行った。つまり規制緩和が必要だ――。


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 話はそれるが、「規制緩和」という言葉はずいぶんとイデオロジカルだ。
「構造改革が必要」「規制緩和が必要」あるいは「構造改革は悪だ」「規制緩和の路線は改めるべき」という発言を耳にする。が、構造改革や規制緩和の具体的な中身にまで議論がおよぶことは、テレビや新聞では、ほとんどない。
 本書を読んだ限りでは、円建て起債への規制をゆるめることに納得できる。が、現在この国の政府が推進している「規制緩和」「構造改革」はじつに多岐に渡っていて、金融市場の規制緩和はそのごく一部に過ぎない。
T・民営化の推進
U・地方自治体に対する税制改革
V・そのほか諸々の体制変革
 以上の3本柱をまとめて「聖域なき構造改革」と小泉元首相は呼んだ。金融市場の規制緩和も、派遣村で注目を集めている労働市場の規制緩和も「V・そのほか諸々の体制変革」のうちのさらにごく一部でしかない。この認識を持つことは重要だろう。
 そしてさらに「構造改革」が具体的にどのような日本の未来像を描いているのか、それについても理解する必要がある。この部分は私見が大きく入り込んでしまうのでここでは触れない。しかし、私たち一人ひとりが日本の未来像を思い描いておくことは重要だ。なぜならあなたの未来像と合致するかどうかで、あなたにとってその政策が望ましいかどうかを判断できるからだ。
 んもう、要するに、政策を推進する側も、批判する側も、「構造改革」「規制緩和」っていう抽象的な言葉だけで議論するのは良くないんじゃないかなぁ、と私は思うのです。
 余談ここまで。



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『マネー敗戦』の話にもどる。
 米国が世界中から借金という形で金をかき集めるためには、米国の利子率がつねに他国よりも高くなければいけなかった。米国ほうが利子率が高ければ、たとえば日本で預金しているよりも、米国で運用したほうがおトクになる。そうして政府・民間を問わず、どんどん米国に投資するようになる。
 しかし時には、米国内の経済政策として、FRBは公定歩合を下げなければいけない場合もある。それによって米国の利子率が低水準となり、資本が国外へ流出してしまっては大変だ。前述のような金の流れが絶たれ、莫大な赤字財政の米政府は行き詰まる。米国が利子率を下げるとき、連動してさらに利子率をさげてくれる仲間が必要だった。
 そしてドイツと日本に白羽の矢がたった。日銀とドイツ連銀はFRBからの要請にしたがって、常に公定歩合を操作することになる。ユーロへの移行によりドイツはこの関係性から抜け出すが、日本はいつまでも忠実に従い、低利子率はいつまでも放置された。
 本書のなかではあまり詳しく触れられていないが、低利子率が常態化するのは好ましくない。利子率とは、簡単にいえばお金そのものの「値段」である。値段である以上、需要と供給の均衡によって決定されるのが(教科書のうえでは)望ましい。しかし利子率が低水準で固定化するということは、市場の価格決定メカニズムが機能していないことを意味しており、厚生の損失をもたらす。もっと身近な例で考えよう。私たちの預金には利子が付くが、この十数年にわたる低利子率の影響で、総額230兆円前後の利子所得を私たち預金者は失った。ではその所得損失を埋め合わせるだけの経済成長と、成長による所得配分があったか。答えは現実を見れば明らかだ。

≪参考≫経済学は死んだか――経済政策失敗の教訓
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/saito.cfm?i=20080428c1000c1
※先日も紹介したこの記事、上記の主張はこの記事からの要約がほとんど。私の知識は、まだ私独自の意見を出せるレベルではない。



 これは素朴な疑問なのだけど、公定歩合の切り上げと買いオペを同時進行で行ったらどうだろうか。異常なまでの円高が進んでいる現在、金利を上げるとさらに円高が進んでしまい、輸出企業を直撃する。が、その一方で買いオペには円安を生じさせる効果があり、特に国債の日銀引き受けはあまりにも強烈な貨幣供給をもたらすので、法的に禁じられているほどだ。しかし国債のなかには政府短期証券のように、日銀の直接引き受けが許されたものもある。それを利用するのだ。国債の日銀引き受けによる円安効果で輸出は伸びるし、利子率は回復して世界中から日本にお金が集まるし、いいことづくめ……。
 あ、やっぱりだめかな。インフレの回避ができなさそう。いくら原油価格が下がっているとはいえ「日銀砲」の2004年のデフレ期とは違い、現在は物価が高いのだ。金利の切り上げによる円高圧力を押さえ込むほどの貨幣供給。そんなことをしたら生活が成り立たないレベルのインフレになりそうな気がする。詳しい人だれか試算してみませんか。

 やはり今は円高によって国全体の購買力が伸びていることを活かして、内需拡大からの経済拡大が現実的なのかも。でも昨日の記事に書いたとおり、輸入増は国民所得のマイナスとなる。だから円高による内需拡大も、輸入製品ばかりを買って国外に富を流してしまうのではなく、ゆくゆくは新たな産業の発展に繋げないといけない……って、すげーありきたりな意見になってしまった。いまじゃ誰もが口にしているよな、これ。




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 吉川元忠は現在の金融危機・経済危機を予言している。
「双子の赤字のうち(中略)経常赤字の主役は、どうやら民間の投資や消費が盛んで、少しも貯蓄に回らないせいだとわかってくる(p202)」
 言葉が難しいのだが、簡単に言えば「プリウスやプレイステーション2が売れまくっているのは、米国人が貯蓄を全然せずに消費ばかりしているからで、その旺盛な需要によってアメリカは好景気」という意味だ。
 吉川は「ベビー・ブーマーの世代」がこの消費の主役だと述べている。この世代が貯金をつくる年齢になり、さらに貯めた資産を取り崩す年齢に達すれば、当然、上記のような構造は成り立たない。「貯金をせずに、所得の大部分を消費に振り向ける」という経済が行き詰まることを、彼は予見していた。日本とアメリカを、アリとキリギリスに喩えて、彼はこう述べている。

「キリギリスは永遠に鳴き続けることができるだろうか。
 ここでは中期的な「危機」の訪れを指摘するにとどめよう(p203)」

 本書は平成10年の著作だ。その後、現実にはベビー・ブーマーの世代は貯金をつくらなかった。彼らは代わりに家を買った。住宅の価格上昇率があまりにも高かったからだ。貯金しているよりも、家を買ったほうが、ずっと利回りのいい投資だったのだ。そして価格が上がり続ける住宅を担保にさらに借金をし、消費に回した。その異常なまでの消費が日本のいざなみ景気や、BRICsの台頭を促したとされている。さらに住宅購入ブームは低所得者層へと飛び火する。いわゆるサブプライムローンの登場である。サブプライムローンの焦げ付きが金融危機にまで発展する過程は、以下に詳しい。ていうか判りやすい。

「やる夫で学ぶサブプライムローン」
http://vipvipblogblog.blog119.fc2.com/blog-entry-148.html



 サブプライムローンの焦げ付きによって住宅が投げ売りされるようになり、住宅価格の高騰に依拠したアメリカ人の消費生活は終わった。吉川が予言していたのは2010年。ベビー・ブーマー世代の貯金の取り崩しがピークに達するであろう年に、経済危機が顕在化すると述べている。住宅バブルによって空前の好景気にわいたアメリカは、皮肉にもその好況によって、経済の行き詰まりを早め、危機を深刻なものにしてしまった。



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 私の誕生日は1985年の9月、奇しくもプラザ合意の直前である。
 私たちが育つあいだに、経済ではどんなことが起こっていたのか。
 それを端的にまとめたこの本は、私たち不況世代の必読書だ。

posted by rootport at 00:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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